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YABEに暮らした人たち その5  YABEを愛したスイス人技術者 アーノルド・ウイトリッヒ(~1983年)

 

柳作町内の雲林寺近くに、横浜市認定歴史的建造物「旧ウイトリッヒ邸」があります。急坂を登りきった右手に見える、青い壁に鎧戸、赤い急傾斜の屋根が特徴のかわいらしい2階建ての洋館です。雲林寺住職の北見さんからは、英語に堪能で柳作や鳥が丘のこども達を教えていた方が住んでいたという話をお聞きしました。英語のレッスンに通っていた北見さんのお嬢様は「当時はまだ珍しかった欧米のライフスタイルが感じられる内装や食品がとても印象的でした。レッスンに行く時はちょっとワクワクしました」と話してくださいました。

 

門柱に掲げられた「歴史的建造物」のプレートには、1933(昭和8)年頃に建てられたと記されています。ウイトリッヒ氏とはどういう人だったのでしょうか。

YABEの田園風景が見渡せた、丘の上の小さな洋館

旧ウイトリッヒ邸
旧ウイトリッヒ邸

この家を建てたアーノルド・ウイトリッヒ氏は、1930(昭和5)年頃に来日し、横浜にあったスイスの機械輸入商社に勤務していました。津田ひ亭(つだ・ひで)と結婚し、1933(昭和8)年頃に矢部に家を建て、日本・戸塚を第二のふるさととしたようです。現在の所有者の方からは

 

「1945(昭和20)年に私の祖母や母が暮らし始めた頃、当時、周囲には住宅が何軒かあるだけで、あとは山や森だった、と聞きました」と伺いました。

以前、この「ぶらりYABE]でも取り上げたとおり、谷矢部は1941(昭和16)年に東亞特殊製鋼等の軍需工場ができるまでは一面の水田地帯でしたので、小高い丘の上にたつウイトリッヒ邸から臨む景色は見渡す限りの緑に覆われた美しい風景だったでしょう。裏手の小屋にはヒツジかヤギを飼っていたようだ、というお話も現在の居住者の方からお伺いしました。もしかすると、ウイトリッヒさんは故郷のスイスにも似た田園風景を愛し、矢部の丘にアルプスのふもとの村に見られるような小さな洋館を建てたのかもしれません。

俣野の大きな農場で自給自足をするものの、軽井沢へ

ウイトリッヒ氏の家があった「ありんこ広場」からの眺め(ウイトリッヒの森@俣野)
ウイトリッヒ氏の家があった「ありんこ広場」からの眺め(ウイトリッヒの森@俣野)

第二次世界大戦勃発直前の1941(昭和16)年6月になると、母国スイスの銀行への送金ができなくなったため、ウイトリッヒ氏は貯金で戸塚区俣野に大きな農場を買い入れます。戸塚周辺には日立、ブリヂストン、日本光学(現・Nikon)といった軍需工場が次々と建設されて人の往来が激しくなってきたことをきっかけに、矢部の小さな青いお家を離れて俣野の農場に住み始めました。野菜や果物を栽培しニワトリを飼って自給自足の生活をし、横浜の市場に売ることもあったようです。

 

そしてついに1943(昭和18)年9月には、戸塚区全域が防諜上の重要地域として「外国人絶対居住禁止区域」に指定され、地域内に居住する外国人はすべて適当な地域に移転させるという計画が発表されます。当時、外国人は横浜や横須賀の停泊艦船の目撃情報を中立国人経由で連合国側に流すと恐れられていたためです。ウイトリッヒ氏も長野県軽井沢へ移りました。1945(昭和20)年の終戦時の外国人居留リストでは、スイス・ジュネーブの赤十字国際委員の部員として掲載されているとのことです。

戦後の日本の復興に尽力し、農場を横浜市へ寄贈

戦後1951(昭和26)年、ウイトリッヒ氏はスイスの商社シーベル・ヘグナー社(現在のDKSHジャパン)に再就職します。復興著しい日本の工場における機械の

出入に携わり同社の機械工作部を発展に導き、1965(昭和40)年までの14年間勤務していたことが、同社の社内報に記載されていました。

ウイトリッヒ氏のあだ名は「ノルディ」。 冗談話のレパートリーも豊富で、「jass(ヤス)」というスイスの国民的なカードゲームを愛好し、友人達と農場でアーチェリーを楽しんだあと、「jass」にふけることもあったそうです。日本語がとても流暢なうえに少し田舎の訛りまであり、そのため電話で話した人が実際に会って外国人だと知って驚くこともよくあったとか。「……彼の目には、いつもいたずら混じりの温かい人情味があふれていた」そうです。

ウイトリッヒ氏は1983 (昭和58)年に俣野の農場内の自邸で亡くなりました。3年後の1986(昭和61)年には妻のひ亭夫人も没し、農場はウイトリッヒ氏の遺言通り横浜市に寄付されました。

一方、ウイトリッヒ氏が離れた矢部の小さな青いお家は、戸塚へのアメリカ軍爆撃機による空襲が始まる1945(昭和20)年前後に、軍需工場の一つだった日本光学(現在のNikon)が買い上げました。寮や工場管理者の方の社宅として使用し、戦後はその管理者の方の個人宅となり今に至っています。森の中には木の枝で丹精こめて小道を作り、花や木々を植えて整備し、現在まで大切にお使いになっています。2003(平成15)年に、同じく矢部町の吉田大橋近くにある伊東医院とともに、「よこはま洋館付き住宅を考える会」の尽力や関東学院大学工学部建築学科(当時)教授の関和明氏の調査報告によって、「歴史的建造物」として横浜市に認定されました。

アーノルド・ウイトリッヒ氏は、この小さなお家には7~8年間ほどしか住まなかったようですが、40年ほど住んだ俣野の農場は、横浜「市民の森ウイトリッヒの森」として憩いの場となっています。新緑の美しい季節、この森に足を運んでみてはいかがでしょうか。近隣の住民の皆さんによって守られ続けている、静かな雑木林が残されています。

 

なお、旧ウイトリッヒ邸と伊東医院は今も住宅や病院として使用されており内部を見ることはできません。外観を見学される際にも居住者の方や近隣にご迷惑とならないように配慮をお願いいたします。本記事制作にあたっては、旧ウイトリッヒ邸の現在の所有者、横浜市 都市整備局 都市デザイン室にも大変ご協力をいただきました。ありがとうございます。

ウイトリッヒの森の雑木林
ウイトリッヒの森の雑木林

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コメント: 2
  • #1

    高橋 伸直 (月曜日, 01 5月 2023 21:19)

    下記にもウィトリッヒ邸の紹介記事があります。
    https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=6276

  • #2

    やまざきまり (木曜日, 04 5月 2023 14:11)

    高橋さま、このたびはコメントをいただき、ありがとうございます。
    「ぶらりYABE」を担当しております、谷矢部東町内会デジタル部の山崎です。
    「はまれぽ」の記事については確認いたしたおりますが、一部、私共が調べた事実と異なる点があること等から引用を差し控えさせていただきました。
    今後とも、ウイトリッヒ氏に関してご存じのことやお分かりになることがあれば是非お知らせください。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。