町について

まちの概要

谷矢部東地区は、戸塚区のほぼ中央にある矢部町地域の中でも、さらにその中心部に位置しています。矢部町地域の人口は約1.7万人、そのうち65歳以上の高齢者は約19%であり、戸塚区の中では比較的高齢率が低い地域です。谷矢部東町内会員数は約300世帯(約580人)。

年齢のわかっている方のうち60歳以上の方が約3割を占め、最近では若い方の転入も増えてきています。

町内会地図

まちの歴史

1952 県営住宅地として開発
1954 谷矢部東町内会発足  会則施行 
1970 矢部小学校設立
1982 街山八幡社御輿新調
1983 お囃子設立
1992 第1回フェスティバル開催
1994 矢部トンネル(大トンネル)開通、広報部設置(第1号東町内だより発行)
1996

・シンボルマーク・町内旗決定、一時避難場所決定(3班A 山田宅前)

・総務部設置

1997

ミニバス開通

防災会設立

1998 防災倉庫完成
1999
お花の小道開通
2004 町内会設立50周年、第二洗心会(老人会)再発足、女性パトロール隊(現わんわんパトロール)結成
2005 夜間パトロール開始(戸塚区初)、初期消火箱寄贈(2班 上條宅前設置),ゴルフ愛好会設立(イースト杯~年2回開催)
2008 ひとり暮らし(70歳以上)の方への昼食提供開始、初期消火箱寄贈(旧:セブンイレブン)
2009 ひよこの会設立、街灯のLEDへの移行開始(年間2灯)、バス停「柳作・東」新設
2011 防災部を設置し防災会廃止
2012

班再編成(後期から6班をA・Bの2分割)

2013 総務・福利厚生部設置
2018 防犯灯のLED化完了(三角公園除く)
2019 町内表彰 の実施(第ニ洗心会、谷矢部東囃子連)、青少年会館の床修繕工事(竹の下町内会と谷矢部東町内会で共同募金)
2019-2020 街山八幡社社殿屋根葺き替え工事
2020 創立来初の紙面表決による総会開催(新型コロナウイルス感染症予防のため)
2021 社会福祉部を廃しデジタル部設置
2022

町内会公式ホームページの開設、青年部・女性部を廃止しイベント部を新設、こども会を町内会の部門化、班長任期の変更(半年→1年)

2023

こども会を総務部のもとに置く

2024

イベント部を地域行事部に改称。ミニ・イベントを担当する「つながり推進部」を設置。町内会公式LINE導入。

街山八幡社について

街山(つじやま)八幡社のいわれと周辺の見どころ

社号:八幡社

祭神:誉田別名(ほんだわけのみこと)別称:15代天皇 応神天皇(八幡大菩薩/八幡様として神格化)

ご利益:家運隆盛、成功勝利、交通安全、子孫繁栄等

例大祭:9月15日  祈年祭(春まつり)4月15日

境内社:神明社・梅園稲荷社

住所:横浜市戸塚区矢部町1003

 

街山(つじやま)八幡社は、江戸時代に編さんされた地誌である『新編相模国風土記稿』(天保12年/1841年)や『神奈川県神社誌』(神奈川県神社庁発行・昭和56年/1981年)の由緒によると、鎌倉・南北朝時代の武将 新田義貞三男の義宗(?-1368)が護持していた八幡大菩薩の神像(伝・平安時代末期~鎌倉時代初期/大治5年(1130年) ~承元2年(1208年)の僧侶・延朗/松尾上人の作)を、地頭の竹ノ下小次郎が室町時代の応永年間(1394 年~1428 年)に、霊水池のほとりに奉祀(ほうし)して創建したのが始まりといわれます。戦国時代後期の天正5年(1577年)の記録には「矢部鎮守街山八幡宮」とあります。

後、江戸時代中期の享保2年(1712年)4月に社殿を新築、安永3年(1774年)9月には内外両殿を修理しました。江戸時代後期の天保14年(1843年)9月、現在地に社殿を建てて山上から遷座し、旧社地には神明社をおいて末社としました。当時は本覚院が当社の別当を務めていましたが、明治初期の神仏分離令により本覚院を廃寺とし神社に転じました。社殿には安永3年及び天保14年の棟札があるとされています。

戦前は境内に老松の大木が生い茂っていましたが、戦後、松喰虫の害にあって切り倒されました。鳥居をくぐると、左側に筆塚と堅牢地神(けんろうじしん。大地の神として五穀豊穣を春分・秋分の日の頃に祈願)の碑があります。筆塚の碑は3枚に折れていますが、碑文には「龍精堂 小倉麟谷(おぐら りんこく)」(本名:小倉重兵衛/明治維新の際に浪人となり江戸より矢部に来往)について学んだ人が謝恩のために元治2(1865)年(江戸時代末期・慶應元年)に建立したと刻まれています。石段を登った左側には「力石」があります。言い伝えでは、明治時代に力比べが行われた際の記念として置かれたものだそうで、石の下には「神奈川 由五郎、同佐助」という2名の名前が刻まれています。また、女坂の登り口に庚申塔、青面金剛(しょうめんこんごう。庚申講の本尊)等があり、猿田彦大神の碑には「東方柏尾道、西方大山道」と記されています。

現在、街山八幡社は当町内と近隣の5つの町内会が祭礼を行っており、保全・管理も協働で実施しています。

<本覚院不動尊>

江戸中期にあたる正保3年(1648年)、築山氏が修行し院号を本覚院としました。明治初期の神仏分離令後、築山氏は還俗して街山八幡社神職に転じたため、現在、高座郡吉岡村龍岡寺の配下となっています。本尊の不動明王は中央の木彫座像であり、一時檀徒が保管し、昭和4年(1929年)9月有志により小堂を造立し安置し、現在の不動堂は昭和55年(1980年)に改修工事が行われましたた。1月28日・5月28日・9月28日の年3回、隣接する柳作町にある曹洞宗 雲林寺住職 北見 秀明上人によって供養が行われています。


<梅園稲荷社(祭神:烏帽子直垂御霊体)>  *境内掲示内容より転記

古は字峰に鎮座せられしと、年号不詳、蔵坪山628番地七坪の地に遷宮せらる。この蔵坪の地名は徳川時代に穀倉在りしより出でしものならん。江戸中期の享保年間(1716年 ~ 1736年)、八代将軍吉宗公の頃、久次二郎なる人此の地に住すとあり。

氏子柴田竹次郎の口ひによれば文化の頃(1804年~1818年)、ウメ女なる寡婦住す。常に稲荷を崇敬し深く祈願し霊験を授けらる。ウメ女、大いに喜びしもそのままに過ごせしに、ある夜、祭神現れその不法を起る。この時の姿は烏帽子直垂御霊体なりしとゆう。婦は大いに驚きこの旨を名主河原四郎左衛門に告ぐ。名主は有力者成宮茂平治と計り一同を集め協議の上、中組の祭神と崇め奉る。按ずるに当地に深き御縁の武家を祭神と仰ぎしものならん。殊に勝負事には霊験著しと今に云う。以降、明治17年(1885年)頃迄、祭典の際は山麓を流るる大久保堀より社前迄はのぼり両側に建ち並び誠に荘厳なりしとゆう。

氏子が如何に敬神の念深かりしかを立証するものなり。その後、社は御遷宮あり。之の由緒深き蔵坪山も時世の進運に伴い土地発展し何時しか山形改まるに至る。


<芭蕉の句碑(霊水池左)>

文政8年(1825年)の秋、鈴木道彦(江戸後期の俳人)七回忌に建立されました。

 

碑の表の向かって右が芭蕉の句であり、貞亨5年(1688年)8月、松尾芭蕉「更科紀行」出発に際して美濃の門人達に残した留別吟4句のひとつです。(出典は松尾芭蕉「笈日記(おいにっき」) 

 草色々おのおの華の手柄かな      

この発句に、江戸俳壇の中心となっていた鈴木道彦(号:金令舎道彦、文政2年/1819年没 享年62歳)が脇をつけた句が刻まれています。

 かはらぬは嬉しさハかり後の月

 

これらの連句として右側面に次のような句が彫られています。

 おもひ出し 夜辺ハよへとて遠砧     露月

 鈴虫に秋の深さを語る夜そ        木阿

 我年を露にくらへが菊の花        應々

 

また、裏には以下のような戸塚の俳人の連句がつけられています。

 まつとなく秋経てゆかし桐一葉      さん風

 けふもまた同しく草なる露の玉      舟仙

 暮るるほと身にもしむるそ秋の雨     好交

 雨の后ねもころにちる野萩哉       惟慶

 年ゝに葛のもみちを今朝の露       栢樹

 めくりあふ梢の露や蔦かつら       鳥孝

 行秋を小流れに見る夕かな        梅堂

 

 戸塚に江戸時代から風流を愛する人たちが暮らしていたことが伺われます。